Japanese Doctor of Neurosurgery as Patient

2011年10月中旬

 起床時に激しい頸部痛、右手指の痺れを自覚しました。1週間後も軽快しないため頸椎MRIを施行し、C3/4椎間板ヘルニアと診断。主治医(脳神経外科 脊髄専門医)と相談の上、まずは自然軽快を目指して経過観察の方針となりました。

  この先生とはその後も電話にてちょっとした症状の変化なども常に相談して頂き、今でもとても感謝しております。

11月中旬

 頸部痛はやや軽快傾向も、左上肢の痺れ、手指のこわばりが出現しました。

MRIにて著変なく、仕事上は問題なかったため経過をみることとしました。

12月中旬

 症状の改善がないため、主治医と手術=前方固定術、について相談。

 私の場合、前方固定術を施行するのには以下2点の問題がありました。

◎ 8年前に交通事故にてC4/5の頸椎椎間板ヘルニアを発症(自然軽快)

 自然軽快したとはいえC4/5の椎間板は依然として突出しており、またC5/6の椎間板も突出。今回のC3/4椎間板ヘルニアは、8年前のC4/5椎間板ヘルニアから始まる隣接椎間障害と考えられる状態。

◎ 脊柱管狭窄症

C3/4椎間板ヘルニアに対して固定術を施行した場合に、術後20%以上のケースにおいて想定される「隣接椎間障害」発症のリスクが非常に高い状態でした。

 担当の先生ご自身は非常にスキルの高い方であったため前方固定術自体に問題はなかったのですが、術後隣接椎間障害のリスク等を勘案し、相談の上引き続き待機となりました。

---年末から年始にかけて---

 左上下肢の運動麻痺が出現、進行したため、日常の外科的診療業務から外れることになりました。自分の中では業務上特に問題ないとは思っておりましたが、仕事柄、指先のちょっとした動きが重大な結果を招く可能性があり、やむを得ない判断でした。

2012年1月中旬

 神経症状が徐々に進行し、排尿時の違和感まで出始めたため、「前方固定」を決意しました。隣接椎間障害などは二の次で、今はこの症状を改善しないと仕事どころか日常生活まで成り立たなくなる、と思い、主治医の先生に相談に行くこととなりました。

 電車を降りた後、左下肢を引きずりながら病院へ。左足が重く、臀部の痛みに心身を削られるようでした。

   主治医とMRI画像を供覧し、現在の症状=四肢の痺れ、左上下肢の運動麻痺、排尿時の違和感、などが最近特に進行している旨を説明し、手術=前方固定術、を依頼。

 先生とdiscussionすること1時間程度、結論は「自然軽快の可能性にかけて1ヶ月の待機」。まだこの症状及び進行の恐怖に耐えなければならないのかという不安と、手術せずに済むという安堵感が混在するも、この時は安堵感の方に身を委ねて帰宅となりました。

 その夜は中々眠れませんでした。手術=前方固定術。一旦症状は軽快するでしょうが、私の場合、次に来るであろう隣接椎間障害への新たなるスタート。今後手術の連続となる可能性があり、また様々な神経症状とも付き合っていく運命の始まり。これは私にとって恐怖以外の何ものでもありませんでした。仕事は続けられるのだろうか?日常生活は?小さな子供たちはどうなるのか?

その翌日

 左下肢の運動麻痺が進行して、立位自体がもたない状態。

病棟で担当患者さんのご家族との立ち話も辛い。四肢の状態が思わしくなく、仕事への支障が確実に大きくなっており、もはやキャリアの終焉かとも。

 昼の休憩時、何とか固定術以外に方法はないものかと思案し、以前からその存在だけは知っていた「人工椎間板」で検索をしました。

 韓国の某病院で人工椎間板置換術が行われており、日本人患者も受け入れ可能であることは認識していました。しかしながら、某サイト上の文言への違和感、掲載されているレントゲン写真から、このレベルの技術では日本で固定術を受けた方が安全と考えておりました。

・ 某サイト上の文言
「頸椎椎間板ヘルニアの完璧な治療」

 どのような疾患においても「完璧な治療」は存在せず、医療従事者でこのような言葉を用いる人はいない。 詐欺的表現で、信頼できない。

・ レントゲン写真  インプラントされた人工椎間板が完全にずれて挿入されている。 このよう位置付けでは今後頸椎のアライメント不整が生じると考えられる。

 すぐに「人工椎間板置換術をドイツで受けて」が目に留まり、まずはななめ読み。表現が抑制気味で掲載者は医療従事者かな?とも思いました。これは可能性があるかもしれない、と思いつつ、先のサイトでの人工椎間板に対する警戒心からひとまず保留し、仕事に戻りました。

さらにその翌日

 左下肢を引きずりつつ一日のduty終了後、もう一度「人工椎間板置換術をドイツで受けて」に目を通して、ここで直接話だけでも聞かないと一生後悔すると思い、メールを送りました。

速やかにメールの返信がありました。

 ブログでの文章と同様、丁寧な言葉遣いは勿論、抑制気味の文章に好感を持ち、以後連絡を複数回行うことに。最初の印象としては「これにかけてみる価値はあるのでは」。

 後は人工椎間板置換術のevidenceを調べ、治療の効果等を裏付けるのみでしたが、普通に考えても関節を動かなくする「固定術」よりも関節を温存する「人工椎間板置換術(ADR)」の方が自然に近く、良いに決まっているはず。

しかしながらADRは日本ではまだ保険収載された術式ではなく、情報自体が全くない状態でした。

単にデバイスラグの問題なのか、術式に大きな欠陥があるためなのかその時は分かりませんでしたが、神経症状が徐々に進行して悠長に待てない状況であったため、「固定術」と「ADR」を比較検討しつつ、ブログの主=コーディネーターM氏(以後、松崎さん)と実際的な話を進めて行くこととしました。

 帰宅時、「ドイツで手術を受ける。」と妻に伝えましたが、「あら、そう。」で終わり。

もっと驚いてくれるのかと思っていた私は拍子抜けしましたが、後に「難しい顔をしていた貴方が、この時だけは晴れ晴れした顔をしていたから、貴方にはこれしかないと思った」と聞かされました。  また、私の病状を知る男性スタッフは「固定術」を勧める傾向にありましたが、私の病状を案じてくれていた職場の看護師は「固定術よりADRの方が良いのでは」と思ってくれていた様子で、女性の直感力には驚かされます。

 松崎さんからの連絡ですが、「私が治してあげる」、「早く治療しましょう」などといった様な文言は勿論、何かを押し付けるような様子が終始まったくなく、常に丁寧で、私の性格、病状の全体像を俯瞰しようとする抑制気味の姿勢で対応して頂いたことが、進行する神経症状のため余裕のなかった私に正常な判断力をkeepさせてくれた様な気がします。

 以後、私の患者情報、要望等を、松崎さんを介してプライベートクリニックであるドイツのプロスパインに送って頂きました。毎日とても丁寧で詳細なやり取りをして頂きました。

 そして、私の症状から急を要する可能性があることをプロスパイン側に、より伝わる様なやり方で詳細に伝えて頂きました。

2012年1月下旬

 夜、松崎さんより、プロスパインが私のケースが緊急を要すると判断していること、そのため迅速に対応する用意があることを伝えて頂きました。

「急がねばならないのでは?」という私の胸の内に隠していた思いが、臨床上も正解であった瞬間でした。私は医師ですが、自分の身体に関する判断は狂ってしまうものだな、とも思いました。

 松崎さんの迅速なコーディネートにより2月初旬に手術が予定され、そこからは、神経症状の進行もあり仕事は基本的に完全休養とし、渡独のための準備、ADRに関する情報検索に時間を費やすこととしました。

---ADRに関して---

 沢山の論文を渉猟しました。その中で出てきた疑問は以下です。 以下の疑問に関しては、松崎さんご自身からも意見を頂きましたし、松崎さんを通じてプロスパインからも意見を頂きました。

① 頸椎ADRの隣接椎間障害の頻度は?
② 頸椎ADRにおいての手術後の骨化、癒合

 まずADR後の隣接椎間障害ですが、論文での報告上では、殆どのケースで統計学上、固定術よりもADRの方が優っておりました。より自然な可動性温存が隣接椎間障害の頻度を低くする、ということは理屈にあっていると思いました。

 次に頸椎ADR後に人工椎間板の上下の椎体が経時的に骨化し、一部においては癒合するという報告が比較的最近なされていました。

 このトピックにおける論文は比較的多く、これは私も予想外のことで、論文によってはかなりの頻度での骨化が報告されておりました。ADR後に癒合してしまえば「固定術」と同様の結果であるため、特に深刻な問題に思えました。

 しかしながら論文を詳細に調べると、この骨化、癒合には手術時のいくつかのfactorが存在しており、詳細は割愛しますが、松崎さんの説明にてドイツのベルタグノーリ先生はそのfactorを確実におさえて手術を施行されていることが分かりました。

 また、骨化癒合の頻度が高い論文の出所=国(もしくは術者)がある程度決まっている、つまり手術が適切に行われていないと考えられる国(もしくは術者)が決まっており、それを避ければよいだけである、と思われました。

 外科手術における論文の陥穽は、やむを得ないことではありますが、術者の技量、誰が手術をしたのか、が欠けている点だと私は思っております。

 このトピックに関して松崎さんともかなり意見交換を致しましたが、結果、プロスパインでは癒合なしということでした。今後の骨化、癒合の可能性がないわけではなかったですが、可能性のそれ以上の追求、手術の躊躇は「外出時の交通事故を気にして外出しない」と同義と思われ、無益であると判断してやめることにしました。

 以上2点に関しては勿論、ちょっとした手術の不安、疑問点に関して、松崎さんはご自身が患者であったことから、極めて詳細に答え、とるべき考え方を提示してくれました。

 また海外ADR患者のコミュニティーとも連絡をとりあっておられ、実際の生の声を私に伝達して頂きました。これらによって私がどれほど勇気づけられたか分かりません。

 家族、同僚の理解のもと、渡独が決まりました。

 実際の渡独ですが、本来は松崎さんは先に渡独してミュンヘン空港で私を迎えてくれる、という段取りだったのですが、私の進行する歩行障害、その介助を考慮して、松崎さん自ら成田空港で待ち合わせを提案して頂いたので、お言葉に甘えることとしました。

2012年2月○日

 いよいよ渡独の日が来ました。朝4時30分に自宅を出発し、伊丹空港から成田へ。成田で松崎さんと待ち合わせ、ドイツへ出発しました。

---ミュンヘン空港までの機内---

   松崎さんとかなりの時間ADRに関してお話をしました。臨床上の疑問点から、理屈では中々言い表せない疑問点=不安に近いもの、まで粘り強くdiscussionして頂きました。機内でのこの会話で私の不安は80%解消されました。

 ミュンヘン空港到着。専用のベンツでお迎えがあり、一路ボーゲンへ向かいました。ドイツ時間で夕刻にボーゲンのホテル「シュライバー」に到着し、夕食の後就寝。

---入院まで---

 ボーゲンは清潔感のある小さな町で、日本人好みのするところだと思いました。2月なので雪があり、転倒を避けるため外出は最小限にしました。松崎さんに用意して頂いた「携帯用スパイク」に感動。脱着式で雪道での歩行に用いました。

 食事は町にある2件のイタリアン、1件のトルコ料理、1件の中華に頼ることになりました。中華の経営者は韓国人でしたが、あとはそれぞれ母国人が経営しており、塩味が強いものもありましたが、概ね美味しく、特にイタリアンのピザは安くてボリュームもあり、ほぼ毎日食べました。

 渡独4日目にプロスパイン訪問。秘書の方々の笑顔が素晴らしい。ベルタグノーリ先生の右腕フェンクマイヤー先生の診察を受けました。一通り神経所見をとった後、「間に合って良かったですね」の一言に安堵。 ベルタグノーリ先生はロシア、インドで医師の指導に当たっておられ、手術前日に帰国とのことでしたが、診察の最後に電話にてご挨拶することが出来ました。

 渡独から手術前日までの間、食事時も含めて松崎さんとは徐々に打ち解けてお話をすることが出来ました。元々は「神経症状が悪化して渡独不可能」といった事態を回避するために出発を早めたのですが、松崎さんとのdiscussionを含めたこの時間が思いもかけず有意義で、ADRに対する私の疑問、不安が入院までに90%以上払拭されました。

 またドイツ到着以来、家族、同僚ともほぼ毎日電話、メールにてやりとりしており、普段通りの親しい人たちに囲まれて入院、手術に臨める気持ちになれました。

手術前日(入院)

 ボーゲン病院入院。道中の空気は冷たく、小奇麗な病院がいっそう引き立つ雪景色でした。病室の窓からみえる白い景色も印象的でした。

 その日のうちに看護師、麻酔科医から説明を受け、最後に帰国間もないベルタグノーリ先生から説明を受けました。世界一の天才脊椎外科医との対面です。帰国直後でお疲れだったとは思いますが、優しい語り口でゆっくりと説明をされ、同業者である私へのリスペクトまで示して頂き、その時点で私の疑問、不安はほぼ100%払拭されました。「腕が良くて、かつ人格者」、ある人物のベルタグノーリ評。僅かな時間でしたが、その雰囲気を十分に感じ取ることが出来ました。

 夜、家族に電話。その後連絡をくれていた同僚にも電話、メールでやり取りをしました。家族、同僚の看護師のお陰で、進行する神経症状の不安、恐怖に正気を失うことなく、ただ限りなく一方的に支えられてここまで来ることができました。心の底にある言葉では表現できない不安、恐怖心は近しい人からの支えなしでは乗り越えられないと思います。自分の幸運、すべてに感謝。

手術日

 「眼をつむって、次に眼を開けたら手術が終わっていた」。

私が患者さんからよく聞いたセリフそのままでした。手足がよく動いており、手術の成功を自覚。その後ICUにて松崎さんと面会し、「あなたの側に来ましたよ」と握手。

後で聞いたところによれば、私の頸椎一椎間ADRに要した時間は約1.5時間だったそうで、これはかなりの速さだと思います。全身麻酔は身体、特に心肺機能に負担をかけるため、手術時間が短いに越したことはありません。

 面会後、松崎さんに「問題なく手術が終わった」旨を速やかに日本の家族に連絡して頂きました。
 翌朝8時に元の病棟へ転棟し、その日から歩行が許可されました。

---手術翌日から退院までの5日間---

神経症状
四肢の痺れ
手術後1日目まで70%程度まで消失しました。しかしながら2日目より再び進行し、退院時は50%程度の回復となりました。

左上下肢の運動麻痺
手術後1日目までに80%程度まで回復しました。しかしながら、痺れと同様2日目より再び進行し、退院時は50%程度の回復となりました。

原因としては、一旦脊髄は減圧されて症状は改善したものの、その後の脊髄の腫脹等のために再び神経症状が増悪したことが考えられました。私の場合、脊髄本幹の圧迫が3ヶ月間以上と比較的長かったため、このような経過は想定内のことでした。

その他の症状
 手術による嚥下障害がありました。椎体前方からアプローチするために気管及び食道を横に牽引する必要があり、それによって嚥下障害や嗄声が出現します。これは前方固定術でも同様です。
 私の場合、幸い嗄声はなかったのですが、嚥下障害に関しては食事時のみならず安静時にも唾液が飲み込めず、少し苦しい思いをしました。飲水のみで過ごした時もありましたが、看護師が用意してくれていた水が飲みなれない炭酸水だったため、少々苦労しました。しかしながら手術時間が短かったこともあり、回復は速やかで、術後5日目の退院時には多少違和感は残るものの、固形物が嚥下できるまでに回復していました。
 尚創部に関しては、術直後から痛みは殆どなく、手術5日目の退院時には疼痛0でした。日本で私の担当患者さんが術後創部痛を訴えた際、「少しは痛んで普通ですよ。我慢して下さいね。」と言っていた自分が恥ずかしい。

病院での生活
 基本的に松崎さんに付き添って頂きました。特に術後は、少し安静が必要ですので、必要物品の買い出し補充をして頂きました。また、言葉の壁がありますので、こちらの細かい要求に関して常に通訳をして頂きました。

 退院前日に頸椎レントゲンで人工椎間板の位置を確認。人工椎間板は正中に奇麗に挿入されており、重心まで計算されているかの様な位置取りでした。安心するとともにベルタグノーリ先生の技術に感謝。

退院日

 朝食後、ホテル「シュライバー」から車でお迎えに来て頂き、送迎してもらいました。ホテルの元の部屋に戻り、「無事帰って来れた」とベッドで横に。

---退院~帰国まで---

 退院後は指定された日時にボーゲン病院に行って診察を受けました。 ボーゲン病院での診察1回、プロスパインでの診察1回でした。

 普段は、基本的に頸椎用ソフトカラーを着けて生活しました。当初は極力頸を動かさない様にロボット風に動いていたため肩が凝ってしまいましたが、ベルタグノーリ先生の診察時に「もっとリラックスしていいですよ」とアドバイスを頂いてからは、ある程度柔軟に動かす様にしました。

頸椎ADRにおいては、術後間もない時期でも自然可動域の70%程度まで動かしても良く、ソフトカラーはそのストッパーとして機能させることが目的の様です。固定術の場合、術後一定期間は頸椎の動きをカラーで厳重に制限せざるを得ないのですが、ここにもADRの利点がありました。実際に柔軟に動かしても疼痛は勿論、違和感すらなく、その後当然肩凝りも軽減しました。

 ボーゲン病院での診察は、内科医による問診が中心で、その時の症状によっては内服薬を処方するというものでした。その後のプロスパインでの診察は、ベルタグノーリ先生による診察で、頸部の状態をチェックして頂いた後、今後の症状回復の見込み、職場復帰時期の見込みなどを説明して頂きました。 ADRに関する専門的なお話も少々御聞きすることが出来ましたし、雑談も交えて終始和やかな雰囲気で診察して頂きました。

その後プロスパインで主にdataの解析をしておられるハビヒト先生とお話することができ、ADRに関する様々なdataを教えて頂きました。また、ADRを含めたmotion preservation technologyに関する医学書を紹介され、購入することに。書籍代は安く「おまけ」してもらい、見開きにはベルタグノーリ先生から直筆のメッセージを頂きました。これから勉強です。

 その他ホテルでの生活ですが、退院してからしばらく胃腸の状態が悪く、食欲が減退していました。原因は分かっていたのですが、病院食から開放されてのピザを夢見ていたので少々辛かったです。その頃、ちょうど町のパレードの日が迫っており、それに合わせてイタリア人経営のアイスクリーム屋さんが再開されました。そのアイスはとても美味しく、全身にしみ込む様な感覚で、以後通いつめました。帰国日が近づくにつれて胃腸の状態も回復しました。

 ドイツ滞在中の精神的支柱は家族、同僚など、私の周りにいてくれる人たちでした。日本で待ってくれている人がいる、という気持ちは常に私を励まして目を前に向けさせてくれました。

帰国日

 手術後13日目。

 昼食後にミュンヘン到着時と同様、専用のベンツでお迎えがあり、ミュンヘン空港へ向かいました。 道中車窓から見た、BMWの巨大な工場、原発からの巨大な煙など、行く時に見た同様の景色があり、印象的でした。1時間足らずでミュンヘン空港へ到着し、搭乗手続きへ。松崎さんと「次は日本で会いましょう」と約束し、握手。

進行する脊髄麻痺の中、私に残った一縷の希望を現実の形にしてくれた恩人との握手。僅か1ヶ月前に知り合っただけの私に限りなく尽くしてくれた、恩人との握手。日本人には握手の習慣はありませんし、私自身も握手の記憶は僅かにある程度でしたが、この握手は一生忘れないであろう、心から感謝の握手となりました。

   搭乗前に、病院で渡された肺塞栓予防用の「ヘパリン」を打つべくトイレへ。トイレでこそこそとヘパリンを腹部へ皮下注し、注射器をゴミ箱へ破棄。この動作が何か悪いことをしているかの様で気持ちが高揚し、犯罪者気分に。皆が自分を見ている様な気がしましたが、単なる自意識過剰でした。

 日本の家族、これまで支えてくれた人たちに帰国の連絡をし、松崎さんに手配して頂いた電動カートに乗ってANAの搭乗口へ。

 予定の飛行機に乗りましたが満席に近く、「後ろの席で寝転んでやれ」という私の邪な野望もあえなく砕け散りました。CAに「頸椎の手術後であり、痛くなったら5分で良いのでどこかで寝転ばせて欲しい」と申し出るも笑顔で却下。航空会社からすれば「ビジネスクラスを買えば良い」というのが本筋なので、こちらも作り笑顔で席へ。

 10時間以上の座ったままのフライトは少し疲れましたが、頸に違和感はなく、無事帰国できました。次の国内フライト、高速バス、タクシーを乗り継ぎ、自宅へ。帰宅時はもっと感動すると思っていましたが、「ただいま」と普段と変わらない帰宅。上手くいった時はこんなものなのだろう、と。これにてひとまず予定通りのADR完了となりました。

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